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鳥潟会館 (2001) | |||||||||||
鳥潟会館 2001(H13)/8/16 |
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●大館市立 鳥潟会館 ・付属郷土資料庫 鳥潟会館の概要 く名称>大館市立鳥潟会館 く沿革>京都帝国大学名誉教授で日本外科学会会長をつとめた鳥潟隆三博士の生家です。 また、無線電話機を発明し世界の通信発展に偉大な貢献をした鳥潟右一博士や、明治時代にすぐれた奇術や軽業興業によってヨ ーロッパで名声を博した鳥潟小三吉が幼年を過ごした家でもあります。 建物は300年余の歴史をもつ旧家で、昭和11年から約5年の歳月を要して延べ1,000人を超える京都の大工・左官等の手によって、その一部の 補修と増築をしたものです。 また、庭づくりには京都から造園師を招き、庭石に鞍馬石を使うなど、京風の情緒豊かな庭園として、建物と共に東北地方有数の文化遺産と いわれています。 昭和26年に当時の花岡町に寄贈され、大館市との合併により「市立鳥潟会館」として一般の利用に開放しています。 く敷地面積>8,191.08u(2,478坪) く建物面積>791u(240坪) く建物構造>木造一部二階建て |
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京都帝国大学名誉教授 医学博士 鳥潟隆三 略歴 明治11年(1878)、精一、静子の長男として同家に生 まれる。 鳥潟家は代々花岡村の肝煎(きもいり)を勤 めた旧家である。 隆三は大分中学校、第一高等学校、京都帝国大学医学 部へと進み、明治37年(1904)に恩賜の銀時計を授与 されて卒業した。 明治45年、スイスのベルン大学に留学「血清細菌学」を 研究、帰国後、鳥潟免疫研究所並びに附属病院を創立 する。 大正11年(1922)京都帝国大学教授。「コクチゲン」 を創製、同時に平圧開胸術を創案した。 その後、日本外 科学会会長に就任し、日本医学会の発展に寄与した。 |
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無線電話機の発明者 工学博士 鳥潟右一 略歴 明治16年(1883)花岡村根井下に生まれる。 大分中学校 から東京開成中学校に転じ、第一高等学校、東京帝国 大学電気工学科へと進み、首席で卒業、恩賜の銀時計 を授与された。 明治39年逓信省技手、同42年に英・米に留学、帰国後、 29歳でTYK式無線電話機を発明、大正2年(1913)鳥 羽市で実用化され、同4年には東京〜上海間の無線通 信に成功し世界に名を馳せた。 大正4年に33歳で工学博士、同9年に38歳で逓信省 電気試験所長となってその活躍が大いに期待されたが、 大正12年(1923)に41歳の若さで夭逝、正三位勲二等 瑞宝章に叙された。 |
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世界的軽業師 鳥潟小三吉 略歴 天保13年(1842)に花岡村に生まれ、嘉永元年(1848)に 江戸に出、のち大阪で軽業の修業、慶応2年(1866)同 僚とヨーロッパに渡り各地を巡業する。 ドイツを巡業 中に司官の娘フハンネェと結婚、明治9年に帰国、 日本各地で興行し名声を得る。 同15年(1882)に再び 渡欧し国際的軽業師となり、ドイツ興行中にドイツ皇 帝に招かれ妙技を披露、喝采を博し記念メダルを賜る。 明治23年に帰国して郷里花岡に当時としては珍しい 洋館を建築して住む。 明治42年(1909)に67歳で没。 本名幸之助。 |
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テーブル |
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資料庫内 |
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写真撮影 平成13年8月16日 |