医王院

医王院(いおういん) 所在地:龍ケ崎市砂町
医王院
慶長三年(1598)大統寺二世日山梵朔によってひらかれた大統寺の隠居寺で、代々大統寺の住職が兼務していた。本尊薬師如来尊は秘仏であるが、33年に一度薬師市の日に開帳されていた。薬師如来は心身の病をいやす働きから医王仏とも呼ばれており、この寺の本尊も病気平癒を願う人々によって信仰されてきた。医王院は明暦二年(1656)に本堂がされている。
参考文献:龍ヶ崎市郷土史(S33.10.31発行、S51.3.25.改訂発行)

医王院の地図

蓼太句碑
蓼太句碑  雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた)は信州伊那郡大島村の人。 芭蕉門十哲のひとり服部嵐雪(らんせつ 一世雪中庵)の流れをくむ 俳人で、雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇に おいて活躍した宗匠である。著書に「筑波紀行」、「蓼太句集」、 「発句小鑑」などがある。 この句碑の表面には「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と 蓼太の句が刻まれ、裏面には「空摩居士自隠禅士の隻手(せきしゅ)の音を聞く……、居士は天明七年丁末九月七日を以て没す、 今慈に二十七回忌の正当を営む、 よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力をあわせ、 遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を納む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。文化十年癸酉九月七日、筑波庵道 隣謹記、薫堂井敬儀筆」と記されている。 建立者道隣(どうりん)とは、上町杉野治兵衛氏のことで、 俳人筑波庵翠兄(すいけい)と称して龍ヶ崎を中心とした 常陸・下総に多くの門弟をもち、晩年蓼太に傾倒し高弟となった。 天明元年(1781)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、 数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所 旧跡の句を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。 蓼太の没後二十七回忌にあたる文化十年(1813)に、 翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み この句碑を建立した。 参考文献:現地説明文より引用