板碑 (文化財)

板碑・文化財 この板碑は、弘長四年(1264)甲子二月に建立された、下総型板碑の塔婆である。板碑の表面には、上部に二条線・天蓋(てんがい)・種子・蓮座偈文(れんざげぶん)と続き、中央の梵字の種子は、阿弥陀如来と脇侍(わきじ)の観世音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)が刻されており、願文は、「佛説観無量寿経」下巻の偈の一説「其の仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転(その仏の本願力により名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく彼の国に到りておのずから不退転にいたらん)が記されている。

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金剛院の板碑 

龍ケ崎市指定文化財 考古資料
板     碑
昭和五十四年三月二十二日指定
 この板碑は、弘長四年(1264)甲子二月に建立された、下総型板碑(*1)塔婆(とうば)(*2)である。

板碑は、亡くなった人達の供養のためや、生前に死後の冥福を願うものとして鎌倉時代から室町時代にかけて盛んに造立されたものである。

 碑の表面には、上部に二条線・天蓋(てんがい)・種子・蓮座偈文(れんざげぶん)と続き、中央の梵字の種子は、阿弥陀如来と脇侍(わきじ)の観世音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)が刻されており、願文は、「佛説観無量寿経」下巻の偈の一説「其の仏本願力、聞名欲往生、皆悉到彼国、自到不退転」(その仏の本願力により名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく彼の国に到りておのずから不退転にいたらん)が記されている。

 明治二十五年(一八二五)頃、貝原塚南部大井戸付近の水田で、この板碑が橋として使われていたのが発見された。

当時、この近辺に火の玉が出たり奇怪なことが続いたりしたので、村の人達は化け物石と恐れて、現在の金剛院境内に移管したもので建立した場所は不明である。

平成五年三月
龍ケ崎市教育委員会
(*1)
下総型 板碑(しもうさがた いたひ)
主に茨城県の筑波山から産出される黒雲母片岩(*3)製の板碑をいう。
 
(*2)
塔婆(とうば)
仏塔(ぶっとう)は、インドの「ストゥーパ(stupa)」が起源の仏教建築物である。
ストゥーパはサンスクリット語で、漢訳仏典では卒塔婆(そとば・そとうば)と音写され、塔婆(とうば)とも略す。

ただし日本では、卒塔婆の語は木の板の供養塔を意味するように変化し、本来の卒塔婆(ストゥーパ)は塔(とう)と略す。
本来のストゥーパは饅頭のような形に盛り上げられたインドの墓で、漢の時代に中国に伝わり木造建築の影響を受けた。

ストゥーパに塔の字が使われるようになったのもこのころである。
その後、日本に伝播した。日本では五重塔・三重塔・多宝塔など、木材(檜など)を使って建てられることが多い。

なお、小型のもの(宝篋印塔や五輪塔など)は石造や金属製(青銅など)のものが多い。
形は大きく変わったものの、本来のストゥーパのもつ意味は変わっていない。

多くは信者の寄進によって立てられる。
(参考: Website ウィキペデア仏塔(ぶっとう)より)

世界の塔婆 (参考: WebSite 塔婆より)
画像集(Google)
板碑   (*2)塔婆 (*3)黒雲母片岩
   
年代表


参考資料