金剛力士立像 (文化財)

金剛力士立像・文化財 桂昌寺の仁王尊(金剛力士像)は、もとは八代町富士神社の仁王門に祀られていたものである。
富士神社は、社伝によると、鎌倉時代の 正治二年(1200)の創立で、元亀二年(1571)に江戸崎城主土岐治英の保護のもとに再興されたという。  
この像の胎内にあった「寛文十三丑九月吉日、富士山二王勧進帳」によると、現龍ヶ崎市域、江戸崎町、阿見町、新利根村、河内村、 美浦村、桜川村からも奉加が寄せられ、かなり広範囲の信仰を集めていたことを知ることができる。
明治初年の廃仏毀釈の影響でこの像も野に捨てられたが、それを惜しんだ寺崎弥上衛門氏がしばらく自宅に祀っており、 のちに桂昌寺に移されたものである。
参考文献:龍ヶ崎市史「近世調査報告書T」(H6.3.31発行)より引用

桂昌寺の地図


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桂昌寺の金剛力士立像 

龍ケ崎市指定文化財 彫刻
金剛力士立像
昭和五十三年三月二十二日指定
 金剛力士(*1)立像二体は、もとは八代町富士神社の仁王門(*2)に祀られていた ものである。
富士神社は、社伝によると鎌倉時代の正治二年(1200) の創立で元亀二年(1571)に江戸崎城主時治英の保護のもとに再興されたという。

 この像の体内にあった、「寛文十三丑(*)九月吉日富士山二王勧進帳」に よると現龍ケ崎市域の他に牛久市域、江戸崎町、阿見町、新利根村、 河内村、美浦村、桜川村から奉加(*3)が寄せられ、広範囲に信仰を集めて いた。
(*)寛文十三丑=1673年

その後も江戸時代を通じて富士神社とこの像に対する信仰は保 持されたと思われるが、明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)(*4)の影響でこの像も野に捨てら れた。

それを惜しんだ寺崎弥右衛門氏がしばらく自宅に祀っていたが、 後に桂昌寺に移され、現在に至っている。
 金剛力士は、仁王ともいい、上半身裸形で裳(も)(*5)をつけ、金剛杵(こんごうしょ)(*6)をもつ。

もともと金剛杵の威力を人格化させたもので仏陀(ぶっだ)(*7)を守護する力士であっ たが、仏法(*8)を守護し、邪悪をしりぞける像として寺門や須弥壇(しゅみだん)(*9)左右に 安置される。

桂昌寺では、本堂の前脇に安置されている。口を大きく 開ける阿形(あぎょう)像(*1)、閉口の吽形(うんぎょう)像(*1)とともに、近世初頭の造形を示す優品である。

平成六年三月
龍ケ崎市教育委員会
(*1)
金剛力士(こんごうりきし)  参考:ウィキペデア
金剛力士(こんごうりきし)は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。
サンスクリットではVajradhara(ヴァジュラダラ)という。開口の阿形(あぎょう)像と、口を結んだ吽形(うんぎょう)像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(におう、二王)の名で親しまれている。

原語は「金剛杵(こんごうしょ、仏敵を退散させる武器)を持つもの」の意。日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。

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(*2)
仁王門(におうもん) 参考:百科事典マイペディア
仏寺の守護神として,2体の金剛力士を安置する楼門(ろうもん)。
仁王を安置し,寺門を守る風はインドのバールフットの塔門に例があり,日本では法隆寺西院の中門が最古例。また東大寺南大門の運慶・快慶作仁王像が最大とされる。
(*3)
奉加(ほうが) 参考:Weblio
神仏に参詣して金品を奉納すること。
特に、寺社の建設などの際に金品を寄進すること。寄付。
(*4)
廃仏稀釈(はいぶつきしゃく) 参考:ウィキペデア
仏法を廃し、釈迦の教えを棄却すること。
明治初年、祭政一致をスローガンとする政府の神道国教化政策・神仏分離政策によってひきおこされた仏教排斥運動。各地で仏堂・仏像・経文などが破棄された。
(*5)
裳(も) 参考:ウィキペデア
裳(も)は十二単を構成する着物の一つである。
腰のベルトとなる二本の小腰、袴の腰板のような大腰、後ろに引きずる紐のような二本の引腰とプリーツスカートのような裳の本体で構成される。
(*6)
金剛杵(こんごうしょ) 参考:ウィキペデア
梵名 ヴァジュラ・ヴァジラは、密教やチベット仏教における法具である。
仏の教えが煩悩を滅ぼして菩提心(悟りを求める心)を表す様を、インド神話上の武器に譬えて法具としたものである。基本的な形は棒状で、中央に柄があり、その上下に槍状の刃が付いている。刃の数や形によっていくつかのバリエーションがあり、それぞれ固有の名称をもつ。また柄に鬼の顔の飾りがついたものがあり、これを鬼面金剛杵と呼ぶ。

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(*7)
仏陀(ブッダ) 参考:ウィキペデア
仏陀(ブッダ、梵: buddha)は、仏ともいい、悟りの最高の位「仏の悟り」を開いた人を指す。
buddha はサンスクリットで「目覚めた人」「体解した人」「悟った者」などの意味である。
(*8)
仏法(ふっぽう、ぶっぽう) 参考:ウィキペデア
法 (仏教) - 仏に成る方法。
法門の元。如来法(にょらいほう)ともいう。対義語は世間法(せけんぼう、略して世法-せほう)である。また政治を仏法の対照として見る場合は王法という。また、仏教そのものを指す場合もある。
(*9)
須弥壇(しゅみだん) 参考:ウィキペデア
須弥壇(しゅみだん)とは、仏教寺院において本尊を安置する場所であり、仏像等を安置するために一段高く設けられた場所のこと。
須弥山に由来する。 須弥壇の上は仏の領域とされ、壇上に直接諸仏を安置する場合と、厨子や宮殿(くうでん)を置いて、その中に仏像等を安置する場合がある。和様、禅宗様、折衷様がある。形態として床に直接置く背丈の高いものと、上置式の背丈の低いものがあるが、前者が圧倒的に多く、後者は日蓮正宗以外では殆ど用いられていない。 元来仏壇といえば、須弥壇のことであったが、中世になって寺院仏堂の仏壇を「須弥壇」と呼び、家の中に仏を祀る厨子のことを「仏壇」というようになった。現在も仏壇内の仏を祀る壇は「須弥壇」と呼ばれる。

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(*1)金剛力士   (*6)金剛杵(こんごうしょ) (*9)須弥壇(しゅみだん)
   



参考資料
  • 龍ヶ崎市史「近世調査報告書T」(H6.3.31発行)
  • 金剛力士立像看板説明文
  • Website ウィキペデア、 百科事典マイペディア、 Weblio
  • 画像集(Google) 金剛力士、金剛杵、須弥壇