由来:寺伝によると、天元年間(978〜83)の創立という。
寺に蔵されている天保五年(1834)信行実侃が整理した過去帳によると、寛永年間(1624〜44)
からの記載があり、院居士号を持つ難波田氏の存在が確認され、寛永年間には菩提寺としての機能が整備され
ていた事情を知ることができる。
古くは「おではんにゃ」と称して般若心経六百巻を若い衆がかついで部落を駆け走る行事があった。
本殿には寺宝として室町時代の製作と推定される大日如来が安置されている。
板碑
また境内には龍ヶ崎市指定の文化財である弘長四年(1264)の銘のある板碑がある。板碑は亡くなった
人達の供養のために、生前に死後の冥福を祈ってつくるもので、鎌倉時代から室町時代にかけて
盛んに造立されたものである。この板碑の願文には「仏説観無量寿経」下巻の偈の一節「其の仏本願力、聞名欲往生、
皆悉致彼国、自到不退転」(その仏の本願力により、名を聞きて往生せんと欲せば、皆ことごとく
彼の国に到りておのずから不退転に到らん)と記されている。
また碑の表面には、上部に二条線・天蓋(てんがい)・種子・蓮座偈文(れんざげぶん)と続き、中央の梵字の種子は、阿弥陀如来と脇侍(わきじ)の観世音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)が刻されている。
明治二十五年(1825)頃、貝原塚南部大井戸付近の水田で、この板碑が橋として使用されていたのが発見された。当時、この付近に火の玉が出たり奇怪なことが続いたしたので、村の人達は化けもの石と恐れて、現在の金剛院境内に移管したもので建立場所は不明ある。
参考文献:龍ヶ崎市史「近世調査報告書T」(H6.3.31発行)、他より引用
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