馴馬城跡【なれうまじょうせき】

茨城県指定文化財
馴馬城跡
(なれうまじょうせき)
この城跡は、南北朝動乱のかなり早い時期に南朝方の拠点として存在し、暦応4年(=興国2年、1341年)秋、南朝方の北畠親房が奥州の結城親朝に宛てた書状に、一連の合戦の中で「河内郡馴馬楯(城)等引退候き」とある。
3年後の康永3年(=興国5年、1344年)にも南朝方の春日顕国が一時籠城して、足利方の宍戸朝里により攻略された「馴馬沼田城(馴馬城)」比定され、この攻防を最後に龍ケ崎地域の南北朝動乱は事実上集結している。
これらのことからも、馴馬城は少なくとも二度、南朝方が起点として戦ったと思われる。
…龍ケ崎市歴史民俗資料館の「龍ケ崎の文化財」パンフレット参照

馴馬城跡の地図

◆馴馬城跡の画像・動画
画像 …画像をクリックすれば拡大表示します(別ウインドウで)
2012(H24)年
枝垂れ桜
龍ヶ崎・なれうま城  [ 1:15]

龍ヶ崎市なれうま町には南北朝時代の城あとがあります。県指定の史跡です。

Y muratahujisiroさん が 2012/12/23 に公開
馴馬城跡の地図 (Google)

◆馴馬城跡の説明板
馴馬城跡
 城跡は、龍ケ崎城蹟(*1)より西北西約1.5キロメートルのこの辺り(*2)一帯と考えられる。

 馴馬の集落から南南東に延びる台地の先端は、歴史民俗資料館が建つ山王久保の谷を挟んで二股に分かれている。この南側の細い台地を利用して、堀切で区切るという類型的な構造をしている。

 文献では、南北朝時代に南朝方の拠点の一つで、暦応4年=興国2年(1341)10月、「河内郡馴馬楯等引退」とあり、城主が誰であったかは不明であるが、北朝方から攻撃されたことがわかっている。

三年後の康永3年=興国5年(1344)にも、南朝方の武将、春日顕国が立て篭った「馴馬沼田城」が、宍戸朝里ら北朝方の常陸軍勢に攻略されていることから
馴馬城(*3)比定(*4)されている。
 
 茨城県は、昭和15年(1940)4月5日、南側の台地にある小高い丘一帯の私有地を県指定史跡にしている。

 城跡の
遺構(*5)は、この谷が空堀であり、前方の道路が左右の台地をつなぐ土橋となっている。全体としては明瞭な遺構が少なく、現存する部分を見るかぎり、古風な形式をとどめ、南北朝期の貴重な城跡である。

龍ケ崎市歴史民俗資料館

(*1)
龍ケ崎城蹟
現在の龍ケ崎第二高校がある高台が龍ケ崎城があった場所とされている。

 この地図では、右下に「龍ケ崎第二高…龍ケ崎城蹟」が左上に「龍ケ崎市歴史民俗資料館…馴馬城跡付近」がある。     地図が表示されないときは≫こちら


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(*2)
この辺り
この辺りとは、歴史民俗資料館の後部駐車場をいい、この説明板が設置されている。

(*3)
馴馬城


(*4)
比定(ひてい)
同質のものがないとき、他の類似のものと比較して、それがどういうものであるかを推定すること。
(*5)
遺構(いこう)
  参考:ウィキペディア
遺構(いこう)は、過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態、言い換えれば過去の人類の活動の痕跡のうちの不動産的なものを指す。
現在まで残存している部分のみを言ったり、かつての建造物の構造の痕跡が確認される全体を指したりする。
英語で言うところのFeatureが、日本語の遺構に近い概念だが、一般的にFeatureには、垂直的なもの(ピット、壁、溝など)は含まれるが、水平的なもの(生活面、床面、庭、道路など)は含まれないとされる。




◆参考資料

  • 龍ケ崎市歴史民俗資料館の「龍ケ崎の文化財」パンフレット
  • 馴馬城説明板
  • WebSite ウィキペディア