蓼太句碑 (文化財)
蓼太句碑・文化財 | 天明元年(1781)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。蓼太の没後二十七回忌にあたる文化十年(1813)に、翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営みこの句碑を建立した。 ≫ 医王院の地図 |
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医王院の蓼太句碑 「 たましひの 入れものひとつ 種ふくべ 」 雪中庵蓼太(*1) 雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた) …大島蓼太 参考:龍ケ崎の文化財(龍ケ崎市歴史民俗資料館) 大島蓼太は、信州伊奈郡大島村(長野県伊那市)の出身で、松尾芭蕉の弟子の一人、服部嵐雪(雪中庵)の流れをくむ俳人で雪中庵三世を称した。(*2) 蕉門十哲(しょうもんじってつ) 参考:ウィキペデア 蕉門十哲(しょうもんじってつ)とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。(*3) 服部嵐雪(はっとりらんせつ) 参考:ウィキペデア 服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。(*4) 一世雪中庵(いっせい せっちゅうあん) 一世雪中庵 : 服部嵐雪 (*5) 句碑裏面の全文 参考:龍ケ崎市史 近世編 空摩居士白穏禅師の隻手の音を聴をはる其音遺句種瓢にとどまりて千里の外に鳴居士は天明七年丁未九月七日を以て没す今茲二十七回忌の正当を営む因て常陸しもふさの我をしへ子等と力を勠せ遠っ海の石を運びて瑠璃光山分骨を納むなほ枯木裏の龍吟となりてとこしなへに尽くせざれど (*6) 杉野治兵衛、筑波庵翠兄、杉野翠兄(すぎのすいけい)、翠兄 参考:龍ケ崎市史 近世編 翠兄は、宝暦四年(1754)、龍ケ崎村の豪商である伊勢屋杉野治兵衛家に生まれ、家業を継ぐとともに、梅雲・筑波庵のち道隣と号して俳諧の道にいそしんだ。(*7) 『筑波紀行』(つくばきこう) 参考:龍ケ崎市史 近世編 天明元年(1781)五月一日、大島蓼太一行は翠兄・太如を案内役として筑波山へ向けて出発した。 参考資料
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