蓼太句碑  (文化財)

蓼太句碑・文化財 天明元年(1781)、蓼太は龍ヶ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句を残し、著作「筑波紀行」には、翠兄と同行の句がある。蓼太の没後二十七回忌にあたる文化十年(1813)に、翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営みこの句碑を建立した。

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医王院の蓼太句碑 
「 たましひの 入れものひとつ 種ふくべ 」  雪中庵蓼太


龍ケ崎市指定文化財 史跡
蓼太句碑
昭和五十四年三月二十二日指定
 雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた)(*1)は信州伊奈郡大島村の人。
芭蕉門十哲(しょうもんじってつ)
(*2)のひとり服部嵐雪(*3)(はっとりらんせつ)(一世雪中庵(*4))の流れをくむ俳人で、雪中庵三世を称し、江戸中期の俳壇において活躍した宗匠である。著書に「筑波紀行」、「蓼太句集」、「発句小鑑」などがある。

この句碑の表面には
「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句が刻まれ、裏面には「空摩居士自穏禅士の隻手の音を聞く…、居士は天明七年丁未九月七日を以って没す、今慈に二十七回忌の正当を営む、よって常陸、しもふさの我おしえる子等と力をあわせ、遠つ海の石を運びて瑠璃光山に分骨を收む、なほ枯木裏の龍吟となりて、とこしなえに尽せざれと。文化十年癸酉九月七日、筑波庵道隣謹記、薫堂井敬儀筆」(*5)と記されている。

建立者道隣とは、上町杉野治兵衛(*6)氏のことで、俳人筑波庵翠兄(すいけい)と称して龍ケ崎を中心とした常陸・下総に多くの門弟をもち、晩年蓼太に傾倒し高弟となった。

天明元年(1781)、蓼太は龍ケ崎に招かれ、数日間滞在して探題を催し、頼政塚や奈戸岡三本松などの名所旧跡の句を残し、著作「筑波紀行」(*7)には、翠兄と同行の句がある。

蓼太の没後二十七回忌にあたる文化十年(1813)に、翠兄は常陸・下総にわたる門人を集めて、その供養を営み、この句碑を建立した

平成五年三月
龍ケ崎市教育委員会
(*1)
雪中庵蓼太(せっちゅうあんりょうた) …大島蓼太  参考:龍ケ崎の文化財(龍ケ崎市歴史民俗資料館)
大島蓼太は、信州伊奈郡大島村(長野県伊那市)の出身で、松尾芭蕉の弟子の一人、服部嵐雪(雪中庵)の流れをくむ俳人で雪中庵三世を称した。
江戸中期の俳壇で活躍した宗匠であり、著書には「筑波紀行」「蓼太句集」「発句小鏡」などがある。
この碑は、蓼太の弟子で龍ケ崎の豪商伊勢屋に生まれた杉野翠兄(*6)が、文化10年(1813)に師の27回忌法要を行って医王院境内に建てたものである。
句は「たましひの入れものひとつ種ふくべ」と蓼太の句が刻まれている。
(*2)
蕉門十哲(しょうもんじってつ)  参考:ウィキペデア
蕉門十哲(しょうもんじってつ)とは、松尾芭蕉の弟子の中で、特に優れた高弟10人を指していう。蕉門の十哲とも。

蕉門十哲とされるのは以下の10人である。

宝井其角(たからい きかく) 寛文元年(1661年) - 宝永4年(1707年) 蕉門第一の高弟。江戸座を開く。
服部嵐雪(はっとり らんせつ) 承応3年(1654年) - 宝永4年(1707年) 其角とならんで蕉門の双璧をなす。
森川許六(もりかわ きょりく) 明暦2年(1656年) - 正徳5年(1715年) 晩年になって入門。画の名人で芭蕉に画を教える。
向井去来(むかい きょらい) 慶安4年(1651年) - 宝永元年(1704年) 京都嵯峨野に別荘「落柿舎」を所有。芭蕉より野沢凡兆とともに「猿蓑」の編者に抜擢される。
各務支考(かがみ しこう) 寛文5年(1665年) - 享保16年(1731年)
内藤丈草(ないとう じょうそう) 寛文2年(1662年) - 宝永元年(1704年)
杉山杉風(すぎやま さんぷう) 正保4年(1647年) - 享保17年(1732年) 蕉門の代表的人物で芭蕉の経済的支援者。
立花北枝(たちばな ほくし) 生年不詳 - 享保3年(1718年) 「奥の細道」の道中の芭蕉と出会い入門。
志太野坡(しだ やば) 寛文2年(1662年) - 元文5年(1740年) 芭蕉の遺書を代筆。
越智越人(おち えつじん) 明暦2年(1656年) - 没年不詳  尾張蕉門の門人。「更科紀行」の旅に同行。

杉風・北枝・野坡・越人の代わりに以下の4人を加える説もある。
河合曾良(かわい そら) 慶安2年(1649年) - 宝永7年(1710年) 「奥の細道」の旅に同行。
広瀬惟然(ひろせ いねん) 慶安元年(1648年) - 正徳元年(1711年) 美濃蕉門の門人。関(現・岐阜県関市)に弁慶庵をむすぶ。
服部土芳(はっとり とほう) 明暦3年(1657年) - 享保15年(1730年)
天野桃隣(あまの とうりん) 寛永16年(1639年) - 享保4年(1719年) 芭蕉の縁者。芭蕉に許六を紹介。

他に、以下のような説もある。
俳人百家撰(与謝蕪村・編) 其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、越人 芭蕉と蕉門十哲図(對雲・筆) 其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、野坡、杉風 芭蕉と蕉門十哲図(南峯・筆) 其角、嵐雪、去来、丈草、支考、北枝、許六、曾良、越人、杉風
(*3)
服部嵐雪(はっとりらんせつ) 参考:ウィキペデア
服部 嵐雪(はっとり らんせつ、承応3年(1654年) - 宝永4年10月13日(1707年11月6日))は、江戸時代前期の俳諧師。

幼名は久馬之助または久米之助、通称は孫之丞、彦兵衛など。別号は嵐亭治助、雪中庵、不白軒、寒蓼斎、寒蓼庵、玄峯堂、黄落庵など。淡路国三原郡小榎並村生まれ。松尾芭蕉の高弟。雪門の祖。
(*4)
一世雪中庵(いっせい せっちゅうあん) 
一世雪中庵 : 服部嵐雪
二世 : 櫻井吏登
三世 : 大島蓼太
四世 : 大島 完来
五世 : 大島對山

(*5)
句碑裏面の全文  参考:龍ケ崎市史 近世編
空摩居士白穏禅師の隻手の音を聴をはる其音遺句種瓢にとどまりて千里の外に鳴居士は天明七年丁未九月七日を以て没す今茲二十七回忌の正当を営む因て常陸しもふさの我をしへ子等と力を勠せ遠っ海の石を運びて瑠璃光山分骨を納むなほ枯木裏の龍吟となりてとこしなへに尽くせざれど
文化十年癸酉九月七日
筑波庵道隣誌

(*6)
杉野治兵衛、筑波庵翠兄、杉野翠兄(すぎのすいけい)翠兄  参考:龍ケ崎市史 近世編
翠兄は、宝暦四年(1754)、龍ケ崎村の豪商である伊勢屋杉野治兵衛家に生まれ、家業を継ぐとともに、梅雲・筑波庵のち道隣と号して俳諧の道にいそしんだ。
翠兄は、師大島蓼太の没後も二夜庵貞松や夏目成美らとともに江戸俳壇の雄といわれ、常陸・下総・下野に俳諧をひろめ、数百人の門弟を育てた。また、小林一茶とも親交があったことが知られている。
(*7)
『筑波紀行』(つくばきこう)   参考:龍ケ崎市史 近世編
天明元年(1781)五月一日、大島蓼太一行は翠兄・太如を案内役として筑波山へ向けて出発した。
女化原を通り、土浦城下に一泊。二日、土浦から筑波山麓に向かって出発した一行は、山麓の町宿稲見伝兵衛方に宿泊した。
三日は先達(案内人)を雇って登山し、大御堂、男女川、男山・女山両峰を廻ったほか、胎内めぐりをして筑波登山を堪能した。
下山後、稲見亭において四人で歌仙を巻いて一巻としている。これが「筑波紀行」と呼ばれる句集である。
杉野翠兄の序ではじまり、雪中庵大島蓼太の「筑波紀行」のあとに蓼太・翠兄・魚文・太如の四人で36句が詠まれている。
鴛(おしどり)の巣も かけてたのむや 筑波山   蓼太
つもる清水の 爰みなの川       翠兄
梅くたく 翁の歯音 我折らせて    魚文
碁にいさかはぬ 日はなけり鳬     太如

『筑波紀行』は、この紀行に続いて雪門緒家の文音句・探題句二十章を付録したもので、『立甫花見記』と合刻し、天明元年秋に西村源六を板元(版元)として刊行されている。
『筑波紀行』は雪門七部拾遺のひとつとされ、この紀行によって、蓼太の高弟としての翠兄の江戸俳諧における地位が定まったと考えられている。

『筑波紀行』
『立甫花見記』






参考資料
  • 龍ヶ崎市史「近世調査報告書T」(H6.3.31発行)
  • 龍ケ崎市史 近世編
  • 蓼太句碑看板説明文
  • 龍ケ崎の文化財(龍ケ崎市歴史民俗資料館)
  • Website ウィキペデア